金スマ・長渕剛が母親との壮絶秘話!名曲紹介や見逃し配信動画も

歌手の長渕剛さんが1月24日放送の「中居正広のキンスマスペシャル」に出演し、両親や家族との壮絶なエピソードを初告白した。

[text type=marker color=yellow]長渕剛さんのお母さんは、剛さんの前に長男・邦人(くにと)さんを産まれてすぐに亡くしたということもあり、次男の剛さんには溺愛するほど可愛がっていた[/text]ようです。しかし、家が貧乏で粉ミルクを買う余裕がない長渕家は、剛さんを米のとぎ汁を母乳代わりにして育てていました。

そして、長渕剛さんは小学校・中学校へと成長するにつれて、社会での格差や差別に苦しみ、一生懸命藻掻いても報われない現実に直面し、お金や権力というものに嫌気をさす。

しかし、中学3年生でギターと出会うことにより、高校3年間で300以上ものオリジナル曲を生み出し、大学時代にはオーディションで優勝、そしてデビューの話がくるなど、今では誰もが知る一躍人気歌手となった。

金スマ・誰も知らない長渕の内容は?

[text type=marker color=pink]番組概要[/text] 放送は1月24日(金)よる8時から2時間スペシャル!
中居正広の金曜日のスマイルたちへ

日時:2020年1月24日(金) 20時00分~22時00分
テーマ:中居正広のキンスマスペシャル 誰も知らない長渕
MC:中居正広、パネラー: 大竹しのぶ 假屋崎省吾 室井佑月 (他) 安住紳一郎(TBSアナウンサー)

[text type=marker color=pink]番組内容[/text]
中居正広のキンスマスペシャル 誰も知らない長渕剛  2時間スペシャル

1月24日の金スマスペシャルには歌手の長渕剛さんが登場。2019年12月には急性腎盂腎炎という病気で2週間の緊急入院から復帰して初めてのバラエティー番組出演。原点である家庭でのエピソードや今は亡き母親との”誰も知らない”壮絶な物語を涙を流し告白してくれています。

長渕剛の壮絶エピソード

今回の金スマではMCが仲の良い中居正広さんだから出演したと言われています。そして、番組では今までテレビでは語ってこなかった壮絶な人生を涙ながらに語りました。

長渕剛の幼少期は貧乏で病弱だった

長渕剛さんは1956年9月7日に産まれた。父は警察官の邦治(くにはる)、母はマス子といい、邦治は警察官で日頃から休みや正月でもほとんど家に家にいることがなかったようだが、[text type=marker color=yellow]長渕はたまに帰ってきてはキャッチボールをする父をとても尊敬していた。[/text]

また、長渕と邦治さんとのエピソードにはこんな事件もあった。母マス子のふるさとに日帰りで温泉に行った時に強面の極道と互角に話をしている姿が格好良く、さらに憧れが強まったそうだ。

しかし、そんな長渕は子供の頃から身体が丈夫だったわけではない。[text type=marker color=yellow]家にお金がなかった長渕家ではミルクすら買えずに米の研ぎ汁で代用してなんとか乗り切った。[/text]実は長渕剛は次男で長男の邦人(くにと)さんは産まれてすぐに亡くなっているので、剛だけは…と、母マス子は大事に大事に育ててきたようです。

母マス子さんは10代半ばで両親が離婚して父親と住み始めたが、再婚した継母との関係性にうまくいかず、兵庫の工場で働いていたところを邦治さんと出会い、とある事件をきっかけに結婚する。[text type=marker color=yellow]しかし、父邦治さんの給料は少なく、喧嘩も絶えなかった。[/text]

マス子さんは子供立ちを守らないといけない、家庭を壊したくないと必死だったし、父邦治さんも、警察官として学歴がない中正義感が強く、検挙数が低いことを上司に叱責されながらも頑張っていた。

しかし、どちらも現実と戦っていたが、給料は上がらずに家庭内の環境は最悪だった。その[text type=marker color=yellow]当時のことを長渕は「無学が悪いという憤りで家庭の中が爆発していた」と語っている。[/text]

そしてスタジオトークで長渕はこのように振り返っている。

「父が母に手を上げるのは悲しかったし、当時は意味が分からなかった。父は警察官として地域のために働いているということを母に褒めてもらいたかったのだと思うが、母は生活苦からか分からないが罵倒してしまった。父は誰も味方がいなかった」などと話した。

出典:中居正広のキンスマスペシャル 誰も知らない長渕

長渕剛「死んじまいたい・・」絶望の日々とは

その後は九州産業大学への進学を決めた長渕。しかし、その大学進学は表向きの理由で、[text type=marker color=yellow]本当の理由はアーティストとしてオーディションを受けることであった。[/text]

そして、長渕さんは大手事務所からデビューの話が出るほどになり、東京に行って、芸能活動をしたいと両親に懇願した。

無学で厳しい人生を送った父邦治さんは猛反発をし、本気で長渕を殴ったとのこと。しかし、自分の意志を優先させた長渕は成功までは戻れないという覚悟で、あれよあれよと、[text type=marker color=yellow]「純恋歌」でデビューし、2年後の「順子」ではオリコン1位を獲得し、一躍スター街道を登って行った。[/text]

しかし、そんな良い話は続かなかった。

長渕が25歳のときに母マス子が末期の大腸がんとなってしまう。手術は成功したが、その3年後立て続けに若年性認知症となってしまった。(この時母56歳、長渕28歳)

身も心もボロボロになっていた長渕は体重も40キロ台まで減少し、コンサート前や終わった後には点滴を打たなければならないほどだった。

[text type=marker color=yellow]そして「もう歌をやめたい・・・」と思った時に自分を鼓舞するために生まれたのが名曲「STAY DREAM」だった。[/text]

そしてその後、長渕は自分で母マス子さんを介護しようと試みる。

認知症診断から5年後にはマス子さんを自宅に引き取り、自ら介護しようと試みたが、「お風呂で母の陰部まで洗った時に『母ちゃん、ごめん、俺、無理だ~』という気持ちになりました」と正直に明かした長渕。結局、病院に頼ることになったが、自身で面倒を見られない自責の念から涙を流した

出典:スポーツ報知HPより

「母ちゃんは俺が子どもの頃、抱きしめてくれたのに、俺はこんなことしかできないのかと苦しかった。どうやってバランスをとったらいいか分からなくなった」

出典:スポーツ報知HPより

その後、マス子さんは2000年8月12日に急性心不全により享年72歳で他界しました。

最後に、長渕さんは母マス子さんについてこのように触れています。

「母はいつも『あんたは幸せで良かったね~』と言っていました。普通は隠すことも全て、人生の現実と言うのを俺に突きつけた母でした」と振り返った長渕。希望ある生と死にゆく母とのはざまに揺れながら、母を歌った名曲「MOTER」を作ったことも明かしていた。

出典:スポーツ報知HPより

ツイッターでの街の声は?

まとめ

知られざる長渕剛の母親との関係性や、どのような幼少期を過ごしてきたのか。また、父親との会話まで。

長渕剛の曲の「かあちゃんの歌」や「家族」の本当の意味とは。